蜂 羅隠

feng luo yin
平地と山尖とを論ぜず
無限の風光 盡く占めらる
百花を採りて蜜と成したる後
誰が為に辛苦し 誰が為に甘からん

詩句原文:

「蜂」
不论平地与山尖,无限风光尽被占​。
采得百花成蜜后,为谁辛苦为谁甜?

罗隐

漢詩鑑賞:

この詩は晚唐(ばんとう)の詩人、羅隠(らいん)の物に託して思いを寓(ぐう)した作品で、およそ唐の宣宗(せんそう)の大中13年(859年)前後に作られたと考えられる。当時羅隠は初めて長安に赴き科挙を受験、世を救おうという志に満ちていたが、たびたび試験に落第し、科挙の場に十年余りもとどまり続けた。「十上不第(じゅうじょうふだい)」(十度受験しても合格しない) の四文字が、彼の前半生の運命の軌跡をほぼ書き尽くしている。羅隠が生きた晚唐は、まさに国勢が衰微(すいび)し、政治が腐敗した時期であり、宦官(かんがん)が権力を専らにし、藩鎮(はんちん)が割拠(かっきょ)し、権貴(けんき)は驕奢(きょうしゃ)淫逸(いんいつ)にふけり、一方で広大な百姓は年中苦労して働いても衣食に事欠く有様であった。この「働く者がその実を得ず、得る者が働かずして得る」という社会的現実は、この落第した才子の心を深く傷つけた。

羅隠は文名(ぶんめい)で世に知られたが、寒微(かんび)な出身で、人に取り入るのが上手くなかったため、たびたび排斥された。彼は、あの権貴たちが蜂のように「風光(ふうこう)を占め尽くし」、天下の富をかっさらい取るのを目にした。そして、まさに蜂のように勤勉に働く本当の百姓たちは、「誰(た)のために苦(くる)しみ、誰のために甘(うま)いのか」と問うしかないのである。この詩は表面上は蜂を書いているが、実は人を書いている。表面上は物を詠(よ)んでいるが、実は世を諷(ふう)している。 詩人は蜂が花を採り蜜を醸すイメージを借りて、自らの才能を生かせない深い嘆きを表すとともに、晚唐の腐敗した社会への冷厳(れいげん)な問いかけでもある。あの「誰のために苦しみ、誰のために甘いのか」という反語(はんご)は、千年を越えて今日なお、人を震撼(しんかん)させる。

首聯(しゅれん):「不論(ふろん)平地(へいち)と山尖(さんせん)と、無限風光(むげんふうこう)尽(ことご)とく被占(ひせん)せらる。」
平地(へいち)と山頂(さんちょう)とを論(ろん)ぜず、無限(むげん)の風光(ふうこう)尽(ことご)とく占(せ)めらる。

詩の書き出しは、蜂の視点から一幅の「占領」図を描く。「論ぜず…と…と」 は、その範囲の広さを極言する――平地であれ、山頂であれ、行かないところはない。「無限の風光」 は、その得るものの多さを極言する――春光(しゅんこう)、花影(かえい)、芳菲(ほうひ)、ことごとく目に収める。「尽く占めらる」 の三文字は、肯定の口調でこの「占領」の事実を確固(かっこ)たるものとする。表面上、これは蜂の勤勉さとどこにでもいる様子を書いている――それらは群山(ぐんざん)を踏み、百花(ひゃっか)を採り尽くし、あたかも世の中の美しさを独り占めしているかのようだ。しかし、この「占む」という字こそ、詩全体の第一の棘(とげ)である。世の中の風光は、本来すべての人のものであるはずなのに、どうして「尽く占めらる」のか?詩人は蜂をもって人に喩(たと)え、あの権貴豪門(ごうもん)が権勢と地位をかさに、天下の富、人間の風光をことごとくかっさらい取り、わがものとすることを暗に指す。この聯は一見写実のようだが、実は後文の問いかけへの伏線となり、典型的な「まず褒(ほ)めておいてから後で貶(おと)しめる」手法である。

尾聯(びれん):「採得(さいとく)百花(ひゃっか)蜜(みつ)と成(な)りて後(のち)、誰(た)が為(ため)に辛苦(しんく)し誰が為(ため)に甘(うま)からん。」
百花(ひゃっか)を採(と)り得(え)て蜜(みつ)と成(な)りて後(のち)、誰(た)が為(ため)に辛苦(しんく)し、誰(た)が為(ため)に甘(うま)からん。

この聯は詩全体の魂であり、また千古に伝誦(でんしょう)される名句でもある。「百花を採り得て蜜と成り」 は、蜂の労働の艱難(かんなん)さを極めて描く――一つの花、一つの蕊(しべ)を採るのではなく、百花を採り尽くしてこそ、一つの蜜を得る。「誰が為に辛苦し誰が為に甘からん」 は、反語(はんご)をもって出で、前二句に蓄積された情感を一気に打ち破る。この一問は、痛切に、鋭く問い、人に答えようのないものとさせる。蜂は誰のためか知らない、まさに民も誰のためか知らない――彼らは年中働き、春に耕し夏に草をとり、秋に収穫し冬に蓄えるが、結局のところ実りは奪われ、侵され、略奪される。 この「誰が為に」の二字は、問いかけであるとともに糾弾(きゅうだん)でもあり、嘆息(たんそく)であるとともに叫びでもある。詩人は不公正を直接には言わないが、不公正は自ずからその中にある。権貴を直接に非難(ひなん)しないが、権貴はすでに筆下にある。この一問は、匕首(あいくち)のごとく、投槍(とうそう)のごとく、晚唐の腐敗した社会の核心を直撃する。

整体の鑑賞:

これは羅隠の詠物詩(えいぶつし)の中の代表的作品である。詩全体四句二十八字、蜂を切り口として、労働者の艱難(かんなん)と剥奪(はくだつ)された運命を一つに溶かし合わせ、詩人の晚唐社会の不公正に対する冷厳(れいげん)な洞察と深沈な悲慨(ひがい)を示している。

構造から見ると、詩は表から裏へ、まず褒めておいてから後で貶(おと)しめるという進展的層次を呈している。首聯は蜂の「風光を占め尽くす」様を極めて描き、一見称賛のようだが、実は前振りである。尾聯は急転して問い詰め、「誰が為に辛苦し誰が為に甘からん」の一言で収束し、前二句の「風光」を瞬時に打ち砕き、一片の悲涼(ひりょう)へと変える。二句の間には、称賛から諷刺(ふうし)へ、表から裏へ、物から人へ、強い反差(はんさ)を成し、人の心を震撼(しんかん)させる。

趣旨から見ると、この詩の核心は「問う」という字にある。詩人は直接に糾弾せず、議論を発せず、ただ一問で千古の悲慨(ひがい)を問い出す。この「問い」の中には、労働者への深い同情があり、権貴への冷厳な諷刺があり、自らの境遇への痛切な自況(じきょう)があり、さらに世の中の不公正への無言の抗議がある。この「問い」には答えがなく、また答えを必要としない――なぜなら答えはすでに、あの「百花を採り得て蜜と成りて後」の辛苦(しんく)の中に、あの「誰が為に辛苦し」の嘆息(たんそく)の中に、剥奪された者の沈黙の眼差しの中に書かれているからだ。

芸術的手法から見ると、この詩の最も人の心を動かすところは、「物を借りて人に寓(ぐう)し、小をもって大を見る」という二重の映照(えいしょう)にある。詩人が蜂を書く、筆筆(ひつひつ)は蜂であり、また筆筆は人である。蜜を採ることを書く、句句(くく)は物であり、また句句は事である。蜂の辛苦は、百姓の辛苦である。蜂の剥奪は、百姓の剥奪である。このような物を以て人を書き、微(び)をもって著(ちょ)を知る筆法は、まさに中国古典詩歌の「物に託して志(こころざし)を述べる」最高の境である。 詩全体の言語は平易で話し言葉のようだが、字字は千鈞(せんきん)の重みがある。篇幅(へんぷく)は短小精悍(たんしょうせいかん)だが、意蘊(いおん)は無限で、詠物詩中の神品(しんぴん)と称えられる。

表現上の特徴:

  • 物に託して人に寓(ぐう)し、小をもって大を見る:蜂をもって百姓を書き、蜜を採ることをもって労働を書き、「誰が為に」をもって不公正を書き、一つの物、一つの事の中に、時代の運命への深い洞察を含む
  • まず褒めておいてから後で貶(おと)しめる、反差は強い:首聯は「風光を占め尽くす」ことを極めて描き、尾聯は急転して問い詰める。前後対照のもと、称揚(しょうよう)は諷刺(ふうし)に変わり、賛美(さんび)は悲慨(ひがい)に転ずる
  • 反語(はんご)で結び、余韻(よいん)は悠長(ゆうちょう):「誰が為に辛苦し誰が為に甘からん」は問いで収める。答えずして答え、言わずして言い、読者に思索の中で自ら味わわせる
  • 言語は平易、意蘊(いおん)は深長:詩全体に典故(てんこ)は一つもなく、難解な字は一つもないが、字字は痛切で、句句は骨身(ほねみ)に徹し、読めば烈酒(れっしゅ)を飲むが如く、後(あと)に味わって初めてその強さを知る

啓示:

この詩は小さな蜂を喩(たと)えとして、一つの古今変わらぬ主題を物語る――労働者の実りは、果たして誰の手に落ちるのか?

それはまず、「沈黙の労働者」を私たちに見せる。 あの「百花を採り得て蜜と成る」蜂は、何千万という農民、工匠(こうしょう)、織婦(しょくふ)であろうか?彼らは一日中働き、富を創造するが、往々にして富と縁がない。このような「働く者がその実を得ず」という現象は、人類社会の最も古い悲しみであり、またどの時代の詩人にとっても最も深い主題である。

さらに深く、この詩は私たちに「公平」の意義について考えさせる。 羅隠は「誰が為に辛苦し誰が為に甘からん」の一問で、すべての見かけだけの嘘(うそ)を突き破る。この一問は、千年を越え、今日なお通用する。流れ作業のラインで汗を流す人、田畑で日差しにさらされ雨にうたれる人、都市の片隅で黙々と支える人――彼らの苦労は、最終的に誰を甘やかすのか?この一問は、すべての労働者が持つべき一問であり、またすべての権力者が自らに問うべき一問である。

そして最も人の心を動かすのは、詩中にあるあの「百姓のために声を立てる」覚悟である。 羅隠自身、たびたび試験に落第し、官途(かんと)に失望した。彼は個人的な不平不満だけを書くこともできた。しかし彼はそれに留まらず、目をより広大な百姓に向け、あの沈黙する大多数のために声を上げた。このような個人の運命と百姓の運命を結びつける胸襟(きょうきん)こそ、まさに中国の士人の「天下の憂いに先んじて憂える」という尊ぶべき伝統である。

この詩が書くのは晚唐の蜂だが、どの時代の労働者も、そこから自らの姿を見出すことができる。あの「平地と山尖とを論ぜず」の奔走(ほんそう)は、すべての生計を立てる者の日常である。あの「誰が為に辛苦し誰が為に甘からん」の問いは、すべての剥奪された者の心底の嘆息(たんそく)である。これこそが詩の生命力である。それは小さな蜂を書くが、読むのはすべての時代の中の、あの沈黙で強靭(きょうじん)な心なのである。

詩人について:

Luo Yin

羅隠(罗隐 833 - 910)、浙江杭州富陽の出身で、晩唐の著名な文学者・思想家である。晩唐文学の重要代表として、羅隠は諷刺的な詩文でその時代に比類なく知られた。その詩は社会の闇を鋭く通俗的な言葉で直撃することが多く、現存する詩は五百首近くにのぼる。晩唐の詩壇では杜荀鶴・羅邺と並んで「三羅」の一人に数えられ、華美で退廃的な晩唐の詩風の中で独自の地位を築いている。

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