張仲素

Zhang Zhongsu

張仲素(张仲素 769年頃 - 819年頃)、河北河間市の出身で、中唐時代を代表する詩人である。貞元十四年(798年)に進士及第し、さらに博学宏詞科にも合格、翰林学士や中書舎人などの要職を歴任した。その詩作は楽府詩に優れ、特に夫を待つ思婦の心情を描くことを得意とした。詩風は清らかで爽やかでありながら、どこか壮烈な気概をも併せ持つ。令狐楚や王涯とともに中書舎人として詩歌の唱和を行い、当時の詩壇において白居易の通俗詩派や韓愈の奇険詩派と三足を成す存在であった。

主要作品:

生涯:

張仲素は官僚の家系に生まれた。曾祖父の張栖貞は汝州刺史を務め、祖父の張士衡は京兆府功曹の官に至り、父の張応は安南都護を務めた。家学の素養が、その後の文学的成就の基礎を築いた。

徳宗貞元十四年(798年)、張仲素は進士に及第し、李翱・呂温と同年の登第であった。及第後、朝廷に引き立てる者がいなかったため、一時は官職を得られず、長年にわたり埋もれていた。その後、博学宏詞科の試験に再び及第し、ようやく官職を得て、武寧軍(一説には武康軍)の幕僚として、徐州節度使張愔の幕府に入った。

貞元二十年(804年)、張仲素は入朝して秘書省校書郎となった。憲宗元和年間には、その官歴は軌道に乗り始める。元和七年(812年)に屯田員外郎、兼考判官となり、同年礼部員外郎に転じ、元和九年(814年)に司勲員外郎に改められ、元和十一年(816年)には礼部郎中から翰林学士に充てられた。

翰林学士の任にあった頃、張仲素は憲宗の厚い信任を得ていた。元和十三年(818年)、司封郎中・知制誥を加えられ、間もなく翰林承旨学士に昇進した。憲宗の命により、故人である詩人盧綸の遺稿を編纂し、朝廷に進上した。元和十四年(819年)三月、中書舎人に遷り、同年冬に病没した。没後、礼部侍郎が贈られた。

在朝中、張仲素は同じ翰林院にあった王涯・令狐楚と交遊を深め、詩歌の唱和を行い、三人の詩作は『元和三舎人集』としてまとめられ、世に伝わっている。また『賦枢』三巻、『詞圃』十巻を著したが、いずれも佚失した。『全唐詩』にはその詩一巻、計三十九首が収録されている。

作品の風格:

張仲素の詩作は、楽府詩において最も高い成就を遂げており、特に閨怨詩と辺塞詩に長じている。その詩風は、清婉で爽やかでありながら剛健さを兼ね備え、言葉は悠遠として飄逸、構想は精巧で繊細であり、中唐詩壇にあって独自の地位を占めている。明代の胡応麟は『詩藪』の中で、「江寧(王昌齢)の後、張仲素その遺響を得たり、『秋閨』『塞下』諸曲、いずれも工なり」と評価している。

閨怨詩

張仲素は思婦の心情を描くことに最も長じていた。彼の描く思婦の形象は生き生きとして情念を伝え、情感の表現は含蓄に富み、しばしば細部の描写や側面からの烘托によって、深い思慕の情を余すところなく表現している。

『春閨思』はその閨怨詩の代表作である:「袅袅城边柳,青青陌上桑。提笼忘采叶,昨夜梦渔阳。」この詩は、桑の葉を摘む女性が、昨夜、漁陽で戍辺する夫の夢を見たために、心が揺れ動き、籠を手にしながら葉を摘むのを忘れてしまった様子を詠む。前の二句「袅袅城边柳,青青陌上桑」は時節と情景を明らかにし、春の生気あふれる風景によって女性の孤独を際立たせる。後の二句は「提笼忘采叶」という何気ない動作によって、その胸に秘めた思慕の深さを明らかにする。全篇、思慕の情を直接には詠まずとも、その思いは自ずと感じられ、含蓄に富み、余韻が尽きない。

『秋夜曲』も思婦の遠くにいる夫を想う心情を詠む:「丁丁漏水夜何长,漫漫轻云露月光。秋逼暗虫通夕响,征衣未寄莫飞霜。」「丁丁」「漫漫」という畳語を用いることで、秋の夜の長さと寂しさを効果的に描き出している。末句「征衣未寄莫飞霜」は、思婦が天に向かって祈るような口調で、遠くにいる夫への深い思いやりを表現しており、言葉は素朴でありながら情味は深く切ない。

『秋閨思』も同様の佳作である:「梦里分明见关塞,不知何路向金微。」夢の中で夫との再会を願いながらも叶わぬ無念さを、夢境を通して描き出し、哀切で胸を打つ。

辺塞詩

張仲素の辺塞詩は、閨怨詩とは対照的な特徴を示す。これらの詩は言葉が慷慨として激しく、意気軒昂であり、辺境を守る将士の闘志を謳い上げ、盛唐辺塞詩の遺風を示している。

『塞下曲五首』はその辺塞詩の代表作である。其一は、「三戍渔阳再渡辽,騂弓在臂剑横腰。匈奴似若知名姓,休傍阴山更射雕。」長年にわたり戦場を経験した辺将の姿を描き、「騂弓在臂剑横腰」はその勇壮な姿を写し、「匈奴似若知名姓」はその威名が遠くまで轟いていることを伝え、筆力は雄健、気概は豪邁である。

其三は、「朔雪飘飘开雁门,平沙历乱卷蓬根。功名耻计擒生数,直斩楼兰报国恩。」「直斩楼兰」という力強い言葉で、国恩に報いることを誓う将士の壮烈な決意を詠い、慷慨激昂、人を奮い立たせる。

其五は、「阴碛茫茫塞草肥,桔槔烽上暮云飞。交河北望天连海,苏武曾将汉节归。」蘇武が漢の節を持ち帰った故事を用い、辺将の忠節を称えるとともに、深い歴史的感慨を込めている。

宮廷詩と詠物詩

翰林学士として、張仲素は宮廷の応制詩や詠物詩も多く手がけた。これらの詩は辞藻が華美で、対句が整っており、彼の言葉を操る力量を示している。例えば『宮中楽五首』は宮中の生活を詠む:「网户交如绮,纱窗薄似烟。乐吹天上曲,人是月中仙。」麗しい筆致で宮廷の壮麗さと宮女の優雅な姿を描き出している。

『玉縄低建章』は夜空の北斗七星の様子を描く:「迢迢玉绳下,芒彩正阑干。稍复临鳷鹊,方疑近露寒。」観察は緻密で、描写は精微、自然の景物に対する鋭い感受性を示している。

『緱山鶴』と『夜聞洛浜吹笙』は仙人・王子喬の故事を借りて、俗世を超えた境地への憧憬を詠い、詩風は飄逸で悠遠であり、閨怨詩や辺塞詩とは趣を異にしている。

風格の特徴と芸術的成就

張仲素の詩作は多様な風格を示している。閨怨詩は婉約で繊細、細部に情を込めることを得意とし、辺塞詩は慷慨として豪邁、気勢は雄健、宮廷詩は清雅で工麗、辞藻は華美である。このような風格の多様性は、異なる題材を自在に扱う卓越した力量を物語っている。

その詩の言葉は清婉で爽やか、悠遠として飄逸であり、平庸な作は少ない。特に楽府詩の創作に長じ、しばしば「宮商に和す」と評されるように、音律は調和して美しい。辛文房『唐才子伝』には「詩を善くし、警句多し。特に楽府に精しく、往々宮商に和す、古人にも及び難きものあり」とあり、楽府詩におけるその成就を高く評価している。

芸術手法においては、細部の描写や側面からの烘托を得意とし、何気ない日常の動作や自然の景物を通じて、深い情感を伝えている。『春閨思』の「提笼忘采叶」は、何気ない動作でありながら、思婦の心の揺らぎと慕情を余すところなく描き出している。また畳語を用いて意境を創り出すことも得意とし、『秋夜曲』の「丁丁」「漫漫」は、音と様子を写し出すとともに、時間の長さと心の内の想いの絶え間なさをも暗示している。

文学的影響:

張仲素は中唐詩壇において重要な地位を占めており、その影響は主に以下の諸点に見られる。

「元和三舎人」と雅正詩派の代表

張仲素は王涯・令狐楚とともに憲宗朝に翰林学士を務め、詩歌の唱和を行い、詩風も相近していたことから、当時「元和三舎人」と称され、その詩作は『三舎人集』として編まれ、世に伝えられた。彼らの詩作は雅正・中和の美を重んじ、白居易や韓愈などの詩派の美的志向とは対照をなし、中唐後期の詩壇における重要な一極を代表していた。

現代の研究では、張仲素・令狐楚・王涯らの詩作は、権徳輿・武元衡・裴度らと共通する点が多く、「雅正詩派」と称することができるとされている。彼らは白居易を盟主とする通俗詩派、韓愈を盟主とする険怪詩派と並び、中唐後期の文壇に三足鼎立の態をなしていた。

王昌齢以後の閨怨詩の継承者

明代の胡応麟は『詩藪』の中で張仲素を評して、「江寧(王昌齢)の後、張仲素その遺響を得たり、『秋閨』『塞下』諸曲、いずれも工なり」と述べている。この評価は、閨怨詩創作における張仲素の位置を的確に示すものである——彼は盛唐の王昌齢の伝統を受け継ぎ、閨怨詩を新たな高みへと推し進めた。

張仲素の閨怨詩は、芸術的に極めて高い成就を遂げている。『春閨思』『秋夜曲』『秋閨思』などの作品は、繊細な情感表現と精巧な構想により、唐代閨怨詩の模範として、後世に長く歌い継がれている。

白居易との友情とその影響

張仲素は白居易と直接的な交友があった。『燕子楼詩三首』は張仲素が関盼盼の故事を詠んだ作品であり、白居易はその「詞甚だ婉麗なり」を愛し、和詩三首を作った。この逸話は文壇の佳話として伝えられ、二人が詩作において互いに推重し合っていたことを示している。

張仲素は中唐期の傑出した詩人であり、楽府詩に長じ、閨怨詩と辺塞詩の創作において極めて高い成就を遂げた。王昌齢の遺風を受け継ぎ、閨怨詩を新たな高みへと推し進め、辺塞詩は慷慨豪邁、意気軒昂として、盛唐の余韻を示している。王涯・令狐楚とともに「元和三舎人」と称され、中唐の雅正詩派を代表し、白居易や韓愈の詩派と鼎立した。代表作『春閨思』『秋夜曲』『塞下曲』などは、清婉爽やかな言葉、繊細精巧な構想により、唐代詩歌の宝庫の中でも特に優れた作品として、千年の後もなお人々の心を打ち続けている。

Total
0
Shares
春の閨情 張仲素
chun gui si

春の閨情 張仲素

城辺の柳、たおやかに野路の桑の若緑籠提げて摘むを忘るる昨夜、漁陽の夢みし 詩句原文: 「春闺思」袅袅城边柳,青青陌上桑。提笼忘采叶,昨夜梦渔阳。 张仲素